18章|C型肝炎治療中の3・11

東日本大震災 2011年3月11日(金)

朝6時前、「採血です」の声で目覚める。
「そうだ今日は金曜日だ」まだ寝ぼけ半分の頭で思いだす。
「針さします~」という声とともにチックとする痛みで眠気も吹っ飛んだ。
検査の結果に異常がなければ、今日2回目のペグインターフェロン投与が行われる予定。
「良い結果がでますように~」そう念じるのが、採血の時の私のおまじない。

13時過ぎ、「副作用に負けないように」と母が大好きなプリンを買って来てくれた。
その瞬間はプリンを食べ終えた直後にあった。

14時56分。このとき落ちて壊れてしまった時計が最後に示していた時刻。
そのとき私はべっど上に座り、窓際の椅子に座る母とお喋りしていた。

「ずんっ」と突き上げるような感覚に「地震?」と思った次の瞬間、
ゆらゆら~と横揺れを感じる。
このときはまだ、「すぐおさまるだろう」と思っていた。
でも揺れはおさまるどころか強さを増していく。

「あれ?なんかおかしい。いつもと違う」と思い始めながら、
強く揺さぶられる体が落ちないように必死で両手でベッドにしがみついた。
母を見ると椅子から立ち上がれない姿勢のまま片手でテレビ台、もう片手で収納だなを必死に押さえ、
「布団かぶりなさい」と私に言った。

大きな揺れは何分も続いた。廊下では看護師さん達の声がするが聞きとれない。
ベッドが動く音、棚の上の物が落ちる音、建物が揺れる音が響き渡る。
私のいる病棟は古く、激しく揺れてこのまま倒壊するんじゃないかと思うほどだった。
闘病中の身。治療の副作用の覚悟はある程度していた。
でもこの時、「このまま死んでしまうかもしれない」という恐怖を感じる。
怖すぎて声も出ない。

倒れこむように一人の看護師さんが病室に入ってきて、
「カーテンしめて!窓からはなれて!」と叫んだ。
病室の一面は全て窓になっている。
母がかろうじて体制を建て直しカーテンを引き寄せるのを見ながら、窓の外に視線を移す。
「スカイツリーは倒れてない」建設中のスカイツリーが倒れてないことだけは確認できた。

15時10分過ぎ頃。
大きな余震が続く中、自力や車椅子などで動ける患者は近くの看護学校に避難することになる。
携帯電話だけを持って母と共に避難した。

まだ3月の中旬、暖房器具が使用できない教室はすごく冷えた。
毛布が貸し出されたが数が足りず一人ひとりにいきわたらない。
不安と恐怖もあり、時間が経つごとに寒さが厳しく感じられる。
でもそんななか皆、自分より辛いであろう人に率先して毛布を渡す。
そして身を寄せ合うようにして、つけられたラジオの情報に耳を傾ける。
ラジオの情報からは大きな地震があったことだけは分かるが、いまいち詳細が伝わってこない。

地震直後、電話は繋がらなかったがメールは送信できた。
でも彼(主人)からの返信はない。私は連絡のとれない彼に電話やメールをし続けた。

地震から1時間近くが経過したころ、ようやく彼からのメールが送り出されてきた。
彼もすぐメールをくれたらしいが、お互いセンター待機状態になっていたようだ。
お互いの安否と母や義母の安否が確認でき少しホッとする。
そのとき突如浮かんだのは、「今日のインターフェロンどうするんだろ?」

一時的な避難かと思っていたが2時間が経っても避難解除されない。
余震は続いていたが、窓から外を見るといつもと変わらない風景なのに。

でもいつもと違うのは防災放送がずっと街に響きわたっている。
ドクターや看護師さん、看護学校の職員さんたちが慌しく動き回ってる。
まだそこにいる誰もが知らなかった。
地震の後の津波。東日本大震災の本当の恐ろしさを。

避難から3時間が経過の18時に避難が解除され皆で病院に戻った。
病棟で目にしたのは各階ロビーに備え付けられているテレビでの映像。
首都圏各地で発生した火災やビルの崩落事故、埋立地の液状化などと共に首都圏での交通情報。

そして今まで目にしたことのない光景が映しだされる。
津波の映像。
はじめて見たこの時は正直その恐ろしさよりも、一体なにが起こったのか?理解できなかった。

ふとナースステーションを見るとS先生がいる。
先生や看護婦師んの多くは移動できない患者さんに付き添い病棟に残っていたらしい。
S先生が私に気づき手で×のポーズをする。

何がなんだか分からず、「今日の注射はこれからですか?」と聞きに行く。
「今日は残念だけど中止です」とS先生。
「そうですね。あの地震のあとですからね」と私が言うと、
「地震は関係ない。数値の問題です!」とピシャリ。
地震で怖い思いしたんだから、「もうちょっと優しくしてよ」と思う。

病室に戻るとお弁当と水500mlペットボトルが用意された。
母はいらないと言ったが、二人でわけて食べた。
交通網がストップしタクシーも呼べない状況。

時折送り出されてくる彼のメールによると、
東京は完全に交通が麻痺し、会社近隣のホテルも満室。
コンビにはお弁当、パン、惣菜、レトルト食品、カップめんなどすぐ食べれるものがあっという間に品切れし、飲み物も水やお茶は姿を消したようだ。

彼が会社に泊まることになったので、母を迎えにきてもらうわけにはいかなくなった。
看護師さんから隣の空きベッドを使っていいと言ってもらっていたが、
地震の被害を映像で目の当たりにするたび、
家で一人で待っている愛犬のことが心配でたまらなくなった。
家具が倒れ、もしかしたら最悪の状態になっているかもしれない・・・。

そんなとき近くに住む友人からのメールが送り出されてきた。
「大丈夫?ママ一緒?」
とっさにロビーの公衆電話に行き、だめもとで友人に電話した。
やはり繋がらない。もう一度かけてみる。「ツーツーツー」。
何度か試みたがダメだった。時刻を見ると20:55。
そろそろ消灯の時間。最後のつもりで数字を押す。
しばらく時間が経ちコール音がする。繋がった。

友人に事情を話すと、「今からすぐ迎えに行くから」と言ってくれた。
後ほど聞いた話によると、
友人宅でも家具や食器棚が倒れ、その後片付けの最中だったらしいのだが、
私からの電話ですぐさま特大のおにぎりをつくり、熱いお茶をポットに入れ
車に乗り込み病院に来てくれた。
通常は車で1時間ほどの道のりだが、
そのときは結局6時間ほどかかり、友人が帰宅したのは明け方ちかくになった。
本当に感謝の気持ちで一杯になる。

母を見送り、病室に戻る。心身ともに疲れ果てていた。
ほとんど一日中、ずっと揺れているという感じ。
ベッドに横になるが眠れず、頭では地震のこと、愛犬の安否、
インターフェロン中止のこと、これからのこと・・・。
不安なことがグルグルする。
窓の外では防災放送がまだ響きわたっている。

今日の検査結果
血小板:1.5万 白血球:15 赤血球:321 ヘモグロビン:11.3
AST:50 ALT:65 r-GPT:127

 

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